2019.01.23 Wednesday
おばあちゃんのこと 60代女性 鈴

 祖母は明治三十年生まれ、平成の時代まで、九十三歳を生き抜いた。生まれた時から一緒にいたので、祖母のことを少しは知っている。そして、知っていることを、子や孫にも知ってほしくて、書いてみる。
 祖母は奈良県御所(ごせ)に長女として出生。しかし、父親とはすぐに死別。母親は、望まれてお金持ちの歯科医に後妻として嫁ぐこととなった。ただ、子連れは拒まれたので、叔父叔母の元で育つこととなる。後年、父親違いの妹とは、祖母の結婚後は、頻繁に交流があった。私もよく知っている。
 祖母は叔父叔母の家に七歳まで過ごし、そのあとは、京都の大店の呉服屋に、子守奉公にあがる。ここでの生活が、祖母のその後に大きな影響を与えた、と私は思う。七歳で子守奉公と聞くと、「おしん」のように辛抱、我慢の日々を思うが、そういうことは祖母の口から聞かされたことはない。だからといって、なかったことにはならない。「せずに済む苦労はしなくて良い」が口癖だったことも併せて考えれば、推して知るべし、であろう。
 子守はひたすら、重太郎坊ちゃまを守り、お相手を務める。女中さんがたくさんいて、家のことは何もしなくて良かったそうだ。坊ちゃまが学校へ上がれば、登下校を付き添い、教室の後ろで控えていることもあったそうで、学校へ通わなかった祖母には得難い学習の場であったようだ。
 年頃になってお役御免となり、郷里の人の世話で、祖父へ嫁ぐ。祖父の、祖母に対する第一印象は、「小さいなあ」だったと、祖父から聞いたことがある。
 そして、五女一男を授かった。長女が私の母である。
 恵まれた子供時代ではなかったはずだが、祖母はとても上品な婦人だった。物腰や言葉使いは京都風。月に二回、髪結いさんがやってきて、髪を結い上げ、着物もよく誂えていた。だらしない恰好は見たことがない。
 私が小学校高学年のころ、祖母のお供で、かつて仕えていた京都の呉服屋さんへご挨拶に行ったことがある。実家はおもちゃの問屋だったので、重太郎坊ちゃまのお孫さんやらへの土産に、大きなおもちゃの荷物持ちである。しかし、たぶん、行儀作法習得に最適という判断もあったのだろう。祇園祭に際して、家宝の壺や、軸や、きらびやかな振袖が飾られた呉服屋で、祖母は、昔の奉公人、という扱いではなく、大阪の商家の大奥様、という扱いであった。かつての主従は、お互い畳に額が付くぐらい丁寧なお辞儀を繰り返し、上等のお寿司でもてなされ、それは、お供の小学生に対しても、実に礼儀正しく、厳かであった。祖母のお供で京都へ通うことは、その後も続いた。
 祖父は昭和四十一年、心臓発作で突然他界した。祖母の寂しさを思いやるほど大人ではなかった私に、そのころの記憶は薄い。
 中学生の時、従妹や姉たちと、スキーに行くことになった。祖母は買って出て、その付き添いをしてくれた。もんぺ姿も凛々しく、リフトに乗ってそのまま降りてくる、お茶目なおばあちゃんだ。計算したら76歳ぐらいかと思う。
 88歳を過ぎて、認知症になった。しかしそれからの5年間も、気づかいと感謝の人であり続け、只々、可愛いおばあちゃんだった。
歩行が困難になって、ほぼ床につく終末期、おはぎが食べたい、と言い、家人がおはぎを買いに行っている間に、祖母は旅立った。祖母のことを思うときは、祖母の魂に見守られているような気持がする。きっと、そうだ。おばあちゃん、ありがとう。大好きだよ。


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